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【空の向こう】(web改稿版)







「…やっ いや、だっ…も…」

許して。

そんな言葉が口から零れる。こんなにも一方的に幼子のように許しを請うたのは、ここに―――青道に来て初めてだろう。
けれど、そんな事はどうでも良かった。どんなに惨めでも開放してもらえるのなら。

何度でも繰り返したって構わない。
 
しかしいくら懇願しても決して緩む事の無い腕は沢村の言葉を嬲るように、まるでその拘束を行為を止めようとはしなかった。

「あっ、んぅ…っやあ」

甘ったるい声だ。 
信じられない事に。
耳に届く自身の声に絶望が深まる。

まるで知らない――分からない相手の乱暴に感じている。
それも沢村が今まで感じた事の無い、知らなかった深さで。
与えられる刺激が気持ち良すぎて抵抗出来ないなんて。

 
「いやだぁああああっ」



 




はあはあと荒い息と共に飛び起きる。噴き出した汗と涙が溢れ、それはぽたぽた音をたてて布団を握りしめる手に降りかかった。 

「…っ」

夢―――そう安堵した瞬間、込みあがってくる嫌悪と恐怖に沢村は手洗いへと駆け込んだ。その衝動を止めようとは思わず涙と共に胃の中身を全て吐き出す。
胃が空になるまで吐き、胃液しか出なくなったところで諦めてそこを出ると、あれ以来熟睡出来ない身体はたったそれだけの事で体力を削り取られていた。

ドアに体重を預けそのままずるずると座り込む。
不自然な熱を纏った身体に、床とドアのひんやりした感触が気持ちいい。
身体の中心に籠りだしている熱に、情けなくて涙が零れた。

あの悪夢の時は沢村の身体と精神を蝕んでいる。

吐き気しか催さない出来事なのに身体はそれこそ爪の先まで凌辱されつくした快感を覚えている。

沢村を打ちのめしたのは、あの時から今までずっと続くこの事実だ。
忘れたくても忘れられない屈辱と恐怖と―――そして快感。

「…っ」

もう吐き出すものの無い胃がヒクリと波打つ。
込み上げる吐き気と身体に籠もる熱に思わず口を覆う。

けれどもう何もなくて、沢村は歯を食いしばると天井を睨みつけた。
目を瞑る事は出来なかった。今でも身体を蝕む悪夢を鮮明に感じてしまうからだ。

滲む視界に涙が頬を伝うのが分かる。
熱いそれは鬱陶しくて不快だが止まる事は無かった。




 




 
あの日――沢村の二年の夏は終わった。
それはつまり3年――御幸達の引退を示すものだ。

御幸の引退――当たり前だ。三年なのだから。

そんな事はとっくに分かっていた。
けれどいざ、となるとその衝撃は想像していたよりずっと重くて悲しかった。

沢村を青道に導いたのは御幸だ。
御幸に球を受けとめて欲しくて。
御幸ともう一度バッテリーを組みたくて。
ただそれだけのために、沢村は青道にやってきたと言っても過言では無かっただろう。

その、御幸が沢村の前からいなくなってしまう。   

それは覚悟していたよりずっとずっと辛かった。
なのに「オレがいなくなると寂しいだろー?」と揶揄う御幸に返せたのは「んなわきゃないでしょーがっ」などと強がる台詞で。
「アンタこそオレの球が受け取れなくて、つまんないんじゃないですか」と寂しくて出た言葉に、あっさりと「そーだなー」と返され、思いの違いを見せつけられた気がした。

御幸は何とも思っていない。
沢村の球を受け取れなくなるのを。
沢村とのバッテリーが解消する事を。
 
―――それは当然なのかもしれなかった。

すでに御幸はプロ入りを決意していて、天才捕手の球界入りに紙面を賑わしていた。
そして青道に入った新しい一年捕手達の成長も目覚ましく―――御幸の後というのはどうしたって差が出るだろうが、それは比較が御幸だからだ。
高校生レベルでは十分な実力と努力を見せる捕手達に野球部の心配は入らなかった。

「さみしーなー」と笑いながらいう御幸に「当然ですよっ」と返してはいたものの、沢村の胸は張り裂けそうだった。

御幸が引退する事もそうだが、御幸がもう沢村ではなく、ずっと前を見ている事に。
それはスポーツ選手としてこれから伸びていく御幸には必要な好奇心や高揚からだったのだろうが沢村は寂しかった。


けれどその寂しさは以外な形で解消された。
 

「―――アンタ一体何やってんですか…」
「おーおかえり。沢村くん」
「ただい…ってそーじゃねーでしょうがっ!」

声だけは怒りながら今日も御幸が入り浸っている事にほっとする。

引退した三年は通えるものは自宅に戻るが、そうでないものは寮に残る。
もちろん現役の頃と同じ部屋ではなく、三年専用の部屋に行くのだが、通い慣れたこの部屋が落ち着くのだろう。
倉持が遊びにくるのに伴って御幸も一緒に来るのだ。

最初は驚き、でも嬉しくて仕方なかった。

言葉だけは迷惑そうに言いながらも御幸の顔を見るだけでその日の練習の疲れさえ吹っ飛んでしまうのに我ながら単純だと呆れていた。

やがて御幸は一人で来るようになった。

しっかり合鍵を持って。
というのも、予想外に部活が長引いたある日。御幸達三年は逆に早く授業も終わり、遊びに来ていたのだ。
沢村達が部屋に戻った時にはすでに帰ってしまった御幸の差し入れがドアノブにぶら下がっていただけだった。

それを見た時、沢村は無性に御幸に会いたくなり、そのまま合鍵を持ちだすと御幸に渡しに行った。
沢村の勢いに最初はあっけにとられていた御幸だったが、やがて合鍵を受け取ると、くしゃりと沢村の頭を撫でて、サンキュと言った。

それは御幸にしては穏やかな――揶揄いを含まない音で――思わず顔を上げた沢村の目には初めて見る笑顔を浮かべた御幸がいた。

それからは御幸の襲来は神出鬼没だった。

――プロ入りを決めた御幸のスケジュールが沢村達とはまったく違った事もあるが。
こそばゆさに目を覚ますと、御幸が寝ている沢村にいたずらを仕掛けていたりするのが当たり前のようになっていた。
 
けれどここ二週間ほどいよいよリーグ先を決定するのか御幸も忙しかったようで、会えてもほんの僅かな時間だったり、すれ違いだったりした。

だから今日、部屋に明かりがついていた時点で沢村は走り出したのだ。

そして予想に違わず寛いでる御幸を見て、思いっきり顔がほころんでいた事を沢村自身は気付いて無かった。

ついでに沢村は御幸がいなくなる事をどうしてこんなに寂しく感じ、辛く思っているのか、その理由も分かってなかった。

ただもう今日はきっと――多分この部屋に泊まっていくだろう事が予想出来て――それだけでもう十分で、後の事は何も考えていなかったのだ。

いつもならじっくり楽しむ夕飯もそこそこに、風呂もすませて飛ぶように部屋に戻る。
果たして御幸はいた。

その事にほっとすると、オレは風呂まだなんだけど、という御幸に練習もしてないんだから汗臭くもないでしょ、と部屋に引き留め遊びを促す。
しょーがねぇなあと腰を落ち着ける体勢になった御幸に、無意識の内に満面の笑みが浮かび そんな沢村に御幸は苦笑したのだが、その瞳にはちらちらと、沢村の様子をじっくり見極めようとする炎が揺蕩っていた。

御幸と過ごす時間はあっという間で、する予定だったゲームさえせずに話だけで深夜になってしまった。
朝練は無かったのだが、お前そろそろ寝ないと午後からの練習でヘバるんじゃねぇの?と御幸に寝るよう促される。
 
まだまだ御幸と話していたくて。
御幸の言う事はもっともなのだけど、眠ってしまうのが勿体なくて。
躊躇する沢村に、ところで、と御幸が口を開く。

「オレの行き先が決まった」
「それって…」

沢村の問いに目で応える。
 
正式な発表は週明けになるので、内緒な、と初めて会った時のいたずらを企む子供のような瞳が笑う。

「お、おめでとうございやすっ!」

思わず姿勢を正し平伏する沢村に、だから秘密だって、と御幸が沢村の首をがしっと掴み、もう一方の手で頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
あわわ、と両方の意味で沢村は慌てるが、沢村が元の姿勢に戻っても、御幸の腕は沢村の腰にまわされたままだった。

かなり密着した状態に沢村が首を傾げる。

「あの…?」
「お祝いちょーだい?」

え?と思わず間抜けな声が出るが、確かにそうだ。めでたい事この上ない。
何かお祝いしたいのは確かだが、それとこの密着状態には何の関係があるというのだろう。

これではプレゼントを探す事すら出来ない。

沢村がそう言うと、御幸はにっと笑う。

「探す必要ねえから」

え、と思う間も無く引き寄せられる。
目の前に有り得ない近さで御幸の顔が見えると思った時には、そっと優しい感触が唇に触れた。
睫毛が長い、と思うのと、ちゅっと可愛らしい音と共に御幸が離れるのが、ほぼ同時だった。

「…え…と…、今のは――…」

無意識に御幸の触れた唇を指先でなぞりながら言葉を紡ぐ沢村に、まるで何もおかしな事はしてないだろ、とばかりに小首を傾げ御幸が答える。

「初チュー ゲット?」

にまっ、とあからさまに馬鹿にしてるのが分かり、思わず見栄を張ってしまう。

「ち、違げーますよっ!オレだってチュ…、Aくらい経験してますよっ!」

チュウという事さえ恥ずかしくてAと言い直す。
へぇ、と答えた御幸の瞳が笑ってない事に沢村は気付かない。

「ちゃ、ちゃんと女の子相手ですからねっ」

女の子だ、間違いない。
母親だが。
沢村自身も衝撃を受けたが赤ん坊の頃(1〜2歳だろう)の写真にばっちり写っていた。

「――若菜ちゃん?」

御幸が突っ込んでくるのに、ひやひやする。しつこく追及されたらきっと躱せない。
そしたら絶対に大爆笑ものだ。
これ以上聞かないでくれ、と思いながらいつもの、当然の答えを返す。

「ち、違いますよっ、アイツはただの幼馴染…」

なのにどうして倉持先輩も他の先輩も若菜と聞くと妙な事を疑うのだろう、と不思議に思いながら沢村は答える。
御幸から目を離してその事を考えた沢村は、伸ばされる腕に気付くのが一瞬遅れた。

「―――え…」

今度の御幸は目を瞑ってはいなかった。
その瞳の中に宿る光が、本能的な怯えを感じた沢村の瞳を閉じさせる。

「…ん…っ」

御幸、と呼ぼうと開いた唇に、するりとそれは入り込んだ。
舌を絡め取られてそれが御幸のものなのだと気付いた時にはすでに御幸の好きなように翻弄された。

「ぁ、ん…ん」

くちゅりという音が口腔で響き、脳に重く甘いしびれが走る。
御幸の舌が口腔で好きなように動き、沢村の舌を絡めて歯列の裏まで舐められる。
息苦しいのに意識が御幸の舌に集中してしまって抵抗なんて思うことさえ出来ない。身体の力が入らず御幸が抱きとめてくれるのを良い事に、その胸に縋った。

「う…あ…」

つっと飲みきれない唾液が零れる。
何もかもが甘いような苦しいような感覚に、薄く瞼を開いた沢村に応えるように、御幸の瞳が開いていく。
 
御幸の瞳に見つめられ、ぞくりと沢村の身体を戦慄が走る。

恐怖にも似たそれ。
けれど御幸から離れたくなくて、頭の中に過る警告のようなものを無視して再び沢村は目を瞑ってしまう。
触れている御幸の唇が緩い曲線を描いたような気がするが、沢村は御幸にその場を委ねていた。

御幸の舌が蠢く度に甘いような痺れが沢村の身体に広がっていき、その熱が腰の辺りに重く沈むに至り、はっと思わず沢村は御幸を押しやっていた。

思った以上に簡単に御幸は沢村を開放する。
身体に滞る熱にあまり頭が働かない沢村を見ながら御幸はぺろりと自らの唇を舐めた。
 
その様子に、我に返った沢村は咄嗟に自分の口を両手で覆う。

「あ、アンタ…っ、何…っオレに…っ!」

頭がパニックになって何と言って良いのか分からない。唇にも口腔にも御幸の感触が残っていて、
身体に熱がくすぶる。

そんな沢村にまったく悪びれる事無く、にっこりと全開の笑顔で御幸は言う。

「ベロチューだろ?初めてだよな、お前。ごちそうさま」

どうしても沢村の一番を奪いたいらしい。
はっはっは、と笑う御幸には反省の色は欠片もない。

そんな事をしなくても沢村にとっての一番は御幸であるというのに。
何も人の初チューまで奪う事は無いではないか。

「こ、この鬼っ!人の初チューを…っ」

思わず叫んでしまった沢村に御幸は目を丸くする。
御幸の反応に己の失態を悟った沢村は慌てて口を覆うが後の祭りだった。

「…女のコとの経験って…」

えー嘘だろ?と軽いノリのような反応の御幸に悔しくて、あんなのカウントにはいるかぁ!と叫ぶと飲み物買ってくる!と勢いよく立ち上がる。

ちらりと肩越しに御幸を睨むとへらりと手を振られ、ますます悔しくなる。
御幸のお祝いは、この、つ・い・で、に買ってくる飲み物にしてやる、と大げさに肩を怒らせながら部屋を出た。

御幸のせいで身体に熱が溜まり、歩きにくいがとにかく部屋の扉が見えなくなる所まで来て、その足はぴたりと止まった。

「…っ」

はぁ、と熱を吐き出し壁に凭れかかる。
そのままずるずると座り込んだ。顔までも熱を帯びている。

頭の中に、自らの唇を舐めていた御幸が浮かび、ますます身体が熱くなる。
あの唇が沢村に触れ、あの舌が自分の中にあったのかと思うと熱は上がる一方でどうしたら良いか分からなかった。

御幸との口付けだけで腰の辺りに重く甘い熱が籠っているのが分かる。
おまけにあの映像が脳裏に焼き付いてどうしようもなかった。

無駄に顔だけは良い男のせいで、こっちはいい迷惑だ。と文句を言ってみるが何の解決にもならない。
部屋に戻る前に、どこかでこの熱の始末をつけてしまいたかった。

このまま戻ったら絶対、御幸にバレて揶揄いまくられるのは目に見えていたからだ。

ちらりと辺りを見回す。
もう深夜になった今は練習場も食堂も灯りは落ちていて誰もいない。
沢村はどうにも手洗いは落ち着かず、どこか適当な場所は無いかと思案する。

そして結局の所、いつもお世話になっている室内の用具室にした。
外のとは違い、女子マネが出入りしている事もあって適度に綺麗で、適度に暗く、かつマットもある。

飲み物を買うだけにしては長くなってしまうが構わないだろう。
そもそもこの熱の原因を作った張本人なのだから、ちょっとの待ち時間くらい当然の事だ。


そう思いながら用具室に入る沢村は室内に誰かいないか、という事に気を配ってはいたが背後に誰かが忍び寄っている事には気が回らなかった。










感じたのは、あと少しでイケる、という事だ。

いつもとは違う動きで自分を追い上げている事に最初は疑問に思ったが、それは決して不快なものでは無く、むしろいつもと違うそれは、何かより気持ちよくて夢中になる。そしてこのまま熱の解放が出来ると自身を高めようとして、沢村は腕が動かない事に気付いた。

「?、?っあ…?」

何が起きてるのかよく分からなかった。
頭が重く痺れているような感覚。
寝起きに一番近いというのだろうか。朦朧と感じるのは熱が高まっているせいなのか。

熱―――あまり働かない頭に何かが引っかかる。
沢村の腕は頭上で一括りにされ、縛られている。

「は、…あ、ん…ぅ」

ぞくり、と気持ち良いところを擦られ、身体が震える。
あと、少し。

「っ?!」

と同時に目を見開いた。

何も見えない。

真っ暗―――どうやら柔らかい布で目を覆われているらしい。
そして縫い留められ動かせない腕。

なのに、沢村の熱を巧みに煽っていく長い指がある。
おかしい

「?!、や…?あっ?!」

異変に気付いた沢村が身じろぐのに、その指先は愛撫をより強め、もう一方の腕が暴れる沢村を押さえつけた。

「あ、っあ、ん…っ」

どうして、なんで。

最初に考えられたのはそれだけだった。
沢村を拘束する指は巧みで、こんな異常な事態にも関わらず身体に走るのは痺れるような快感だ。

嫌だ。怖い。誰か―――

恐怖に心が怯えるが、高まる熱はどうしようもなく、解放に向かってよりいっそうの刺激を求めていく。
沢村を慰める指先も心得ているのか、その動きが望み通り激しくなり、強すぎる刺激から逃れようと沢村は首を左右に打ち振った。
 
「やぁっ!やだっ…あ、あ…んっやめ…っ」

口で抵抗しつつも沢村はショックだった。
信じがたいことにその手は気持ち良かったのだ。

自分でするよりずっと。
 
ともすれば強請りたくなる。
それくらいその指は巧みに沢村を煽った。 

けれど同時に怖かった。そして屈辱でもあった。
どうしてこんな事になっているのか分からない。

相手が誰なのか。なぜ、こんな事をされるのかさえも。
何よりまるで訳の分からない相手なのに、感じている自分が悔しく、情けなくて。

けれど身体は若村の思い通りにはならなかった。

「や、ああああっ」

頭まで痺れるような絶頂感。
限界まで高められたそれを一際強く擦られ、沢村は達せられていた。

経験した事の無い快感に爪先まで痺れ、身体を埋め尽くす解放感に沢村は身を震わせた。

「…あ、は…あ…」

全身に行き渡るそれに、気持ち良すぎて目に涙が浮かぶ。
大きく胸を上下させながら沢村は身体に籠る熱を吐き出すかのように呼吸を繰り返す。自身から溢れたそれが沢村の快感を示していて、唇を噛み締めた。
そして無理矢理に達せさせられた悔しさと恥ずかしさが、恐怖を上回った。

「ア…ンタ…誰なんだよっ!も…いいだろっ。放せよっ!」

見えない相手に向かって叫ぶ。
目的も意図も分からないのだ。もっとも分かったところで無理矢理、人にこんな事をする奴の言う事など聞く気はなかったが。

どうやら沢村は手を縛られているだけでなく、身につけている物も上半身のTシャツのみで下着は脱がされていた。この格好だけでも恥ずかしい。 
おまけに他人の手でいかされたのだ。

恥ずかしくて悔しくて、腕が自由になったら絶対一発殴ってやる、と思っていた。
 
「…っあ!!」

びくり、と大げさに身体が跳ねる。
見えない相手は沢村の言う事をどう思ったのか。沢村のモノで濡れた手が更に奥へと伸ばされた。

「…な、なに…っや…何っして…っっ!」

普段、決して人に触れられる事のない――見られる事さえない場所に、その指先は躊躇いなく進められた。
くちゅり、という音と共に指がソコに侵入して

「――っ!」

考えるより先に沢村は相手目がけて蹴りを繰り出していた。
見えないけれど、ほとんど反射が取らせた行動といって良かっただろう。

けれどそれは、バシ、と渇いた音と共に相手に受け止められる。そしてそのまま沢村の足首を掴んだ男は、その足を開かせて沢村の足の間に身体を滑り込ませた。
 
「…っあ!」

自分がとらされた格好に沢村の顔が青ざめる。
そして足の間にあるその身体や、沢村を押さえる手の力強さに本能的に怯えた。

沢村とて野球部で鍛えた身体だ。普通の高校生相手なら、例え沢村より大きな相手でもひけを取らないだろう。

けれど今、沢村を押さえつける男は大柄ではないだろうけれど、沢村より充実した筋肉と力強さがある。もし目が見えていたとしても適わない相手だ。

先ほどまでの怒りが急速に萎み、この先の恐怖に身が竦む。

沢村はそんなに経験が豊かでは無いが――はっきり言ってしまえば、性的な経験というのは皆無だったが、この現状が何を意味しているのか分からないなんて事は無かった。

「…っや、だ…」

大声を出して助けを求めれば、誰かが来てくれるかもしれない。そう思ったが恐怖からか、絞り出せた声は震えて、とても外に届くようなものでは無かった。




それからが酷かった


「も…や、…っあ、あ…やめっ」

お願い。やめて。許して。

そんな懇願しか出てこない沢村に男はまったく容赦しなかった。

性的な快楽を知らない身体を隅から隅まで丹念に愛撫し、泣き叫ぶ声を無視して沢村の弱いポイントを探り当てては丁寧にじっくりと教え込んでいく。
どうされると気持ち良いのかを。

「…あああっ」

沢村が何度目かの逐上を迎える頃には、何も知らなかったその身体は男の手によって男の為だけに拓かれていた。
過ぎる快感に極限まで追い上げられ、指一本さえ動かせないのに埋め込まれた男の灼熱が沢村を内から弄ぶ。

「…や、…あ、も う」

誰か―――
ぼろぼろと途切れる事の無い涙が肌に落ちるのさえ堪らない感覚となって沢村を蝕む。
神経だけが剥き出しになっているかのように、快楽を拾い上げ、男の指先が肌を滑るのに感じすぎて狂いそうになる。

「お…ねが…、あ…――…っき」

ぴくり、と一瞬、男の指先が震える。
その音に。
けれどすぐに何も無かったようにねっとりとした唇の感触が沢村の項を食む。

「や――あ…」

ずるりと男のモノが引き抜かれ、それさえも堪らない刺激となって身体を蝕む感覚に沢村が震える。 

限界などとっくに超えていて、何の抵抗も出来なかった。
腕の拘束はそのままだったが、もし解かれていても同じだったろう。何も出来ず沢村はその肢体をただ男の前に投げ出していた。

どこもかしこも、全て。

丁寧に丹念に愛撫され、感じる何もかもを徹底的に探られ、愛されて。
もう途切れ途切れに熱い息を零すことしか出来ない沢村を男の腕はまだ抱き締めた。

男に舐められ開発された胸の双果が赤く濡れて沢村が吐息を零す度に小さく震え、酷く淫らな光景となって男を誘っていた。
男の綺麗な唇が曲線を描く。

けれど男はそっと沢村の身体の中心――心臓の真上に口付けを落とすとその身体を抱き上げ、まだ硬度を保つ男のモノで貫いた。

「っ、や…っああああああ」
 
もう声すら出ないと思っていたのに、どこにそんな体力が残っていたのだろうと悲鳴を上げながら沢村が遠く思う。

誰か―――幸…

男に揺さぶられながら、自分が上げていた声を沢村は知らない。もうずっと前から沢村の唇が零していたのは、ただ一人の名前だ。

―――御幸
 
呼んで助けが求められるわけではない。
現状から逃れられるわけでもない。
けれど狂いそうな快楽に矜持も誇りも塗りつぶされるなか、それだけが沢村の縋る縁だった。
 
こんな事になるまで知らなかった。
 
見も知らぬ男の愛撫はどうしようもなく沢村を悶えさせ、感じさせたけど、同時に身の毛もよだつほどの嫌悪と吐き気が伴った。

沢村が耐えられたのは御幸の存在だ。
 
快楽に堕ちそうな中、その音だけが抵抗したいという正気を留めていたからか。
それとも無意識の内に相手が御幸だったらと願ったのか。
男の愛撫に高められ、気が狂いそうな中、知らず紡がれた御幸という音だけが沢村を守る全てだった。











はあ、と熱を吐き出すように沢村の口から息が零れる。

身体の熱は徐々に納まりつつあった。
あれ以来、沢村は自慰さえしていない。性的な欲求を感じる度、まざまざと思い出される悪夢が沢村の手を凍らせた。

同時に同性、異性を問わず、身体に触れられるだけで吐き気に襲われ自然、人を避けるようになった。

あの後――沢村に触れられたのは高島と倉持だけだった。

ぼろぼろになって気を失っていた沢村を見つけたのは倉持だったらしい。
目覚めた高島の部屋で恐慌に陥る沢村を抱きしめながら、高島はもう何も心配はいらないと何度も繰り返し、沢村の頭や身体を撫でながら言い聞かせた。

御幸は事情を知っていたのか知らないのか沢村は分からない。
 
分かりたくもなかった。

ただ、高島の部屋に閉じこもる沢村にドアの外から声をかけてきた。
 
「沢村。オレ、行くから」
 
縋りつきたい大好きな声に沢村は身体の震えが止まらなかった。

嗚咽が漏れそうになるのを必死で耐える。御幸の声をしっかり聞きたかったからだ。自分のくぐもった音に邪魔されたくなかったから。御幸の声だけでも身体に刻み込みたかったから。

御幸に会いたかった。
直接、声を聞き、顔を見て、話をしたかった。

けれど、こんな汚い自分を見られる事が怖くて仕方なかった。
だからドア越しの声を必死で聞きとめる。

御幸は、最後まで御幸だった。

「オレ、お前がここから出てくるのを待たないよ」
 
――辛かった。

でも、望んでもいた。御幸には何も煩わされる事なく、前を向いて進んで欲しかったから。
絶え間なく溢れる涙を拭う事もせず、沢村はドアにそっと額をつけ、そして全身を凭れかける。

この、すぐ向こうに、御幸がいる。
会いたい――会って、そして
 
ああ
 
音にならない声が、すとん、と沢村の中に落ちる。
御幸が、好きなんだ。
沢村がそう理解するのと同時に御幸の声が届いた。

「今度はオレが、お前を迎えにくるから」
 
会いたい。でも会いたくない、会えない。

遠ざかる御幸の靴音を聞きながら、沢村は立っていられなくなってドアに縋りながら頽れた。ぽたぽたと零れる涙が床を濡らしていく。

それでも御幸の最後に残してくれ言葉が沢村を支えた。
この言葉が例え実現されずとも――御幸に相応しい投手に沢村がなれなくとも、沢村にとってこの言葉だけが立ち上がる全てになった。

事情を知る高島と倉持の配慮で沢村は何とかその後の高校生活を続けられた。
ふいの接触に恐慌に陥り倒れたり、夜中に吐いて苦しんだが、何も言わず倉持が支えてくれた。三年に上がる頃には、人との接触をまるでしない変わり者としてのイメージも一,二年相手には定着し、何とか三年をやり終えた。

結局のところエースナンバーを背負う事は出来なかった。
熟睡も出来ず、悪夢に蝕まれ何度も吐く身体はやせ衰え、一試合を投げ切る体力が無くなったのだ。
それでもムービングの冴えは研ぎ澄まされ、常に押さえの要として試合を支える存在にはなれた。

全て、御幸のくれたあの言葉のおかげだ。

はらりと涙が零れる。

全て、御幸に出会って始まった。
野球の本当の楽しさも、苦しさも。
そして人を恋うるという事も。

全部、御幸がいたから知った事だ。

御幸に出会って、初めてそれまで通り過ごしていた何もかもが。
当たり前だった風景が鮮やかな色を纏って沢村の前に広がっていった。
 
今も、また。

ぐい、と腕で涙を拭きとる。沢村の高校野球も終わった。
御幸のようにプロになる事は無い。

御幸は―――
 
また、涙が零れる。
けれど、これは嬉しいからだ。

御幸は沢村を迎えに来たりはしなかった。
来春からメジャーに行くのだ。

プロに入ってその洗礼を物ともせず頭角を現した御幸は高校時代と変わらぬ貪欲さを見せていた。
紙面を賑わす御幸の記事は、練習の鬼だと書かれる事が多く、その勝利に対する執着心とそれを補う練習と実力が常に称賛されていた。

御幸はプロ入りを決意してから三年の夏が終わる頃にはすでにキャンプ入りして訓練に加わっていた。卒業に必要な単位は練習の合間の補習テストでもぎ取ったらしい。
学校側としてもプロ入りの生徒は良い名目でそれまで特に問題の無かった御幸の成績に色々打算も手伝ったのだろう。
御幸は夏以降はほぼプロ入りして学校に来ず、卒業式でさえ出席しなかった。

しかしその分全てを野球に捧げ、結果を出し続けた。

プロ入り一年でメジャー移籍なんてとんでもない話だが、何でも御幸は最初の契約時点からそれを宣言していたらしい。
そして、それをやり遂げた。



御幸の活躍が、沢村には本当に嬉しくて、いつもどんな小さな記事でも丁寧に集めてはノートに纏めていた。
あの沢村が、と中学時代の友人達なら驚愕するだろう緻密さでそれは作られ、もう6冊目になっていた。

そして、今朝、青道高校を駆け抜けた一番のニュースが御幸のメジャー移籍だった。この一年、監督達さえも御幸からの連絡を受けていなかった所にこのニュースだ。
こればかりは御幸本人からの連絡だったらしいが、何とかいつもの表情を保とうとしながらも部員にそれを告げる監督の目尻にはうっすらと光るものがあった。

御幸のことを想うだけで、沢村の胸には暖かいもので満ちる。

ようやく立ち上がり、沢村はベッドに突っ伏した。
横目で我ながら綺麗に積まれた御幸の記事で満ちたノートを見やる。

嬉しかった
御幸と過ごした時間は今でも煌いて沢村の中にある。そして、それに負けない輝きで活躍する御幸はいつでも沢村を支えてくれていた。
泣きはらして少し重くなった瞼を閉じる。
 
「…御幸 ……おめでと…」

「ありがと」

「――――っ!?」
 
有り得ない応えに沢村の思考が固まる。けれど聞き間違える筈がない。沢村がこの声を忘れる事はないし、間違える事もないのだ。
けれど、でも―――

かたかたと身体が震える。
思わず見開いていた目にはベッドの傍に立つ誰かの足が見えている。顔を上げれば、それが誰か分かる。

でも―――

見るのが、確かめるのが、怖い。
いつもいつも夢見たその人は目が覚めると消えてしまうから。

無言のまま、ぽろぽろと涙を流す沢村の頭に、間違える事のない、その人の大きな手が触れて。くしゃり、と柔らかく頭を撫ぜられる。

「オレだよ―――約束、したろ?」

容赦のない男は膝を着き、沢村を逃がさずにその顔を覗き込むと、視線を絡め取ってしまった。
 
「み…ゆき…」
 
今度こそ涙が溢れ出た。
ひくり、と咽喉を鳴らす沢村を御幸は当然のようにその胸に抱き込んだ。
 
「沢村…」

少し熱を帯びた御幸の声は甘い。それだけで、沢村はもう胸がいっぱいになり震える腕を恐る恐る御幸に廻す。

夢じゃない
 
「みゆき…っ」
 
それを言うのがもう、精一杯だった。沢村の声に応えるように、御幸も強く沢村をかき抱く。

「――会いたかった」
 
プロに入って、ますます逞しくなった身体が力強く、甘く、沢村を抱きしめる。ずっとずっと焦がれていた声が沢村を満たして沢村は何も言えなかった。

――会いたかった

それは沢村の方だ。ずっと御幸の記事を追いかけて、ずっと画面を通して御幸を見て。
 
けれど会いたかった。

あの時から―――ぞくり、とどうしようもない恐怖と嫌悪感が蘇り、沢村は思わず御幸を突き放していた。

「沢村…」
 
辛そうな御幸の声に胸が張り裂ける。けれど
 
「だめ…だ」
 
御幸は沢村なんかに関わってはいけないのだ。
 
「だめ、だ。御幸…」
 
はらはらと涙を零しながら沢村は自身を抱き止めた。そうしないと御幸に縋ってしまうからだ。

あの時の恐怖が身体を震わせる。

会いたくて会いたくて。いつも夢に見ていた御幸だったから、大丈夫だったが、意識のはっきりした今、御幸にさえ触れる事は出来なかった。
 
恐慌に陥りそうな自分が分かる。
 
あれ以来、沢村は自分の身の上に起きたことがどういう影響を齎すものなのか、嫌というほど理解していた。沢村の存在自体が、野球部の、学校の、そして沢村に関わる人達の大きな障害となりえるのだ。

これから世界に羽ばたこうとする御幸なら、尚の事だ。決して沢村に関わったりしてはいけない。

涙を零しながら、それでも御幸から距離を取ろうとする身体を冷徹な瞳が見つめていた。そして
 
「…っみ、幸っ!だめ…っ」
 
逃げようとする沢村を御幸は片腕一本で縫い止め、己の胸の中に抱きこむ。眩暈がするほど恋しい相手に抱き込まれて沢村は泣き叫んだ。

「だめっ…っみゆ…オレ…」
「――知ってる」

びくり、と沢村の全ての動きが止まる。
大きく目を瞠ったまま、その言葉が頭の中に響いた。

―――知ってる
 
知られている?あの、悍ましい記憶を?

―――御幸に?

「――やっ、いや、いやだっ!なんで――…っ」
 
御幸の腕の中で暴れて、逃れようとする。見られたくなかった。こんな汚い自分を。

けれどますます鍛え上げられた御幸とやせ細った沢村では話にもならない。無茶苦茶に暴れても御幸の腕はびくともする事が無く、その腕の中で沢村は泣き崩れた。
そんな沢村をけれど御幸は決して逃さず、そっと顔を擦り寄せ囁いた。

「だから、急いだんだよ。お前がここを卒業するまでに間に合わせなきゃならなかったからな。」
「――?」
 
なぜ?卒業するまでに?御幸があんなにもメジャー入りを急いだ理由が沢村自身にある?ひくりと震える咽喉では言葉も紡げず、視線だけで沢村は御幸に問う。

ちゅ、と軽い音をたてて御幸が沢村に口付ける。
 
「な、初めての女の子って誰?」

懐かしい、優しいそれに沢村の涙も止まる。
そして続いた台詞に、まだ覚えてたのか、と思わず泣き笑いが浮かぶ。そんな沢村に、また御幸が軽く口付けた。
 
「言うまで、止めないよ?」
 
そう言って御幸は沢村の目尻にもまた軽く口付け、その涙を拭う。
くすぐったくて、――懐かしくて。
 
―――母さん
 
と小さく答えた沢村に御幸は軽く目を瞠ると沢村が思わず見惚れるほど優しく、それでいて艶めいた笑顔を浮かべて今度こそ沢村に口付けた。

ずっと―――御幸に――会いたかった。
触れたかった。
御幸と目を合わせて話をしたかった。

胸に押し込めていた様々な感情が涙と共に溢れ出て、沢村は震えながらも御幸に手を回すと、抱きしめてくる力強い腕に逆らわず、ぎゅっと縋りついた。

沢村の口腔を探る御幸の舌はあくまで優しい。
つっと飲みきれない唾液が零れるのもまるで気にならずそれが御幸のモノだと思うと何もかもが恋しくて沢村は御幸に満たされていた。

しかし、ふわり、とした浮遊感に目を開けると御幸は沢村を抱いたまま部屋から出る所だった。
まだ寒くはないが、冷え込んだ空気が頬を撫でるのに、何か感じた沢村は思わず御幸を見つめる。
 
「み…ゆき?」
 
戸惑う沢村に御幸は答えず、ある方向へと向かっていく。
それを察するより早く、がたがたと沢村の身体が震えはじめた。
 
「―――や…」
 
拒絶の言葉さえ咽喉にひりつく。手足が凍り付くような記憶が沢村を侵食して、込み上げる悪寒に壊れた人形のようにぎこちない動きで首を振る。


「や、――い、や…っいやっだ…っ」
 
パニックを起こし、暴れかける沢村を御幸がきつく抱きしめ押さえる。
 
「オレを怒らすな――沢村」

御幸の冷ややかな声に、びくり、と身体が竦む。
怒らせる――なんて。けれど、でも。
あの、部屋は―――
 
青ざめ、瘧のように震える沢村は哀れなほど怯えて涙を流していた―――今もその身に巣くう恐怖に目を瞑ろうとして

「目を逸らすなよ。」
 
沢村の全てを分かっているような御幸の声がそれを制した。
 
「…ぅ…あ、…あ」
 
その、部屋―――あの室内の用具室に沢村を抱いたまま御幸が足を踏み入れる。
ひゅうひゅうと咽喉を鳴らして浅い呼吸を繰り返す沢村は、窒息寸前のような顔色で、それでも御幸の言う通り決して目を瞑らなかった。
がくがく震えながら涙を流し、御幸の言う事を守ろうとする沢村に厳しい瞳をしていた御幸が和らぐ。

けれど落とした言葉は残酷だった。

「―――ここで、抱いてやるよ」
「――っ!」
 
言葉もなく御幸を見つめ返す沢村に、当然のように御幸は口付けた。
ほんの少しだけ離れた唇と瞳が沢村を捉え、言葉を続ける。
 
「ここで―――抱かれたんだろ?オレ以外のヤツに?」

目の前が真っ暗になるような衝撃に身体が揺れる。
本当に御幸に知られている事に。
そして、御幸の言う言葉が事実を指している事にも。

違う、抱かれたんじゃない。あんな―――
アレは無理矢理―――
俯いて小さく首を振るが御幸は赦さなかった。沢村の顎を掴み顔を上向かせる。
 
「オレを見てろ――沢村」

御幸の瞳の中には怒りがあった。
それは沢村に向けられたものでは無いけれど沢村には辛かった。御幸の怒りは焼け付くような痛みを感じさせる。

そしてその痛みは御幸もまた感じているものだ。

怒りと――痛みを秘めた為、殊更に冷たく響く声が沢村の唇に触れて―――綴られる。
 
「お前に触れて良いのは――オレだけ、だろ?」
 
それは確認の定をとっておいたが、命令という力にもっとも近く横暴だった。
 
けれど沢村を捉える御幸の瞳には強く沢村を求める切ない色があった。
哀しみすら感じさせるその瞳に導かれるように、沢村は頷いていた。縦に。

その動きに涙が一つ零れる。
御幸の指がそれを拭い、そしてそのまま優しく沢村の頬を辿る。
宝物に触れるような繊細さで。

「お前のナカに入って良いのもオレだけ、だ」
 
沢村を見据える御幸の瞳には切望とそして獰猛な熱が籠っていて、この返答が何を意味するのか分かっていた。
それでも沢村は応えたいと思った。

同時に同じくらい強く応えてはいけないとも分かっていた。
こんな沢村が御幸に、御幸のこれからに触れていいはず無かったからだ。

けれど御幸の中の痛みを拭い去りたいとも思った。 沢村以上に傷ついた瞳をする御幸を抱きしめたいと思う。
 
沢村の身に起きた事を全て知った上で、それでも躊躇い無く沢村を求めてくる御幸が、何よりも、どうしても。
愛おしくて。

御幸に――触れたくて。
でも―――

視界が歪む。頷けないでいる沢村を御幸は抱きしめていた。

「―――っ」
 
御幸の腕の中で沢村は瞠目した。力強い腕は震えていた。

「沢村―――教えてくれ。全て。」
「―――っ」
「お前を苦しめても、全部、知りたい。―――オレが欲しいのはお前だけだ。他には何もいらない。―――お前だけがオレの全てなんだ。」

何もいらない。

御幸の声は苦しみを滲ませていて、沢村を抱きしめる腕はまるで縋ってもいるようだった。
 
「沢村――オレを―――」
 
助けてくれ。

落とされた言葉に沢村は何も考えられず御幸を抱きしめていた。
今、この時だけでも。
御幸の苦しみを和らげたかった。

きっと許されない。
 
そう、思ったけれど御幸を抱きしめたかった。沢村も同じだったから。
 
御幸だけを見つめていて、御幸だけが欲しかった。御幸だけのものになりたかった。

腕を解いてそっと御幸の髪を撫でる。
沢村に促されるように顔をあげた御幸の額に口付けた。

「オレも―――御幸だけが欲しい」
 
沢村の言葉に一瞬、御幸は目を瞠り、そして――沢村の知る限り今までで一番泣きそうに優しい瞳をして沢村に口付けた。










「あ…ん、ん…ぅ」
 
脳が痺れるような甘い疼きが全身に満ちる。御幸の舌が、指が、沢村の全身に触れていた。
 
「―――それで?」

唇で優しく沢村に触れてから、再び沢村の胸とネツを愛撫する御幸が促す。
 
「…ぁっん…な、舐められ…っ」
 
御幸の催促に蕩けそうな意識を総動員して沢村が答える。
どこもかしこも高められ、全ての意識を手放してしまいたかった。けれど
 
「やぁんっ、ああっ」
 
沢村のネツが御幸の口腔に、迎え入れられる。
 
全て、同じに。
御幸が沢村に要求した前の男がした事を全部、御幸が繰り返す。

御幸に全てを話すのは怖かった。

見知らぬ男の暴力に感じた自分が恥ずかしく、情けなく、汚らしいと思ったから。それを見抜かれ御幸に軽蔑されるのが怖くて、答えようとする言葉は途切れて震えた。
けれど、御幸には決して嘘が通じない事も分かっていて。

それに、偽りを告げたくも無かった。沢村だけを見つめる真摯な瞳に嘘で答えたくなかった。

そして、きっとどこかで
 
「ああっ、…ん、み、ゆ…っ」
 
御幸の愛撫に沢村が悶える。
男に塗りつぶされた黒い記憶が、まるで同じ事をする御幸に替わっていく。

「ふ…ぁ、あ、んん…」
 
手も指も唇も、全て同じ事をしてるのに、御幸に触れられて感じるのは、とても大きな喜びと堪らない快感だけだ。
 
「み、…ゆ、…み、ゆき…っ」
 
沢村が紡ぐ言葉もあの時と同じ――御幸の名前だけ。 

けれどまるで違う。
まったく違う。何一つ――同じである筈がない。

御幸に触れられて、愛されて、沢村に満ちるのは嬉しさと愛しさと恋しさで。
 
「――栄…」
 
沢村の名を紡ぐ御幸に信じられないほどの喜びで胸が満ちる。

「み、ゆ…、あ、み…ゆきっ」
 
全部――同じ事をしてくれる御幸が愛しくて仕方なかった。

沢村の何もかもを捕らえているくせに、まだ足りないと求める御幸が何よりも愛しく。御幸の全てが沢村にとって何よりも大事なのだと今更ながら思い知る。

沢村の汚い記憶も、苦しみも、全部御幸に塗り替えられて。
沢村の全てに御幸は唇で触れた。
愛しさと喜びに沢村は目の前の雄々しい身体を抱きしめる。
 
「み、ゆ…好き、大好き…」
 
無意識のうちに零れ出た言葉に、御幸が目を瞠り。
信じられないほど幸せそうな顔をして沢村に口付けた。

「――栄… 愛している…」

御幸から告げられた言葉は、快楽に溶けた頭でもはっきりと伝わって。
喜びと驚きに見開いた瞳から涙を零す沢村に、御幸はもう一度、はっきりと告げた。

「愛している。―――栄」
 
溢れる涙と共に沢村の思いと言葉も零れる。
 
「う…ん。 オレも…オレも、御幸を…」
 
何よりも、一番、愛している。
きゅう、と可愛らしく御幸に縋りついて告げる沢村を何よりも大切に御幸は抱きしめた。


















沢村が目を覚ますと、そこは寮の部屋だった。

さっぱりとした身体はベッドに寝かされていて。御幸はいなかった。全てに納得して、もう一度沢村は目を閉じる。やはり少し涙が滲むが、これで良かったのだ。

御幸はもう沢村の前には表れないだろう。
沢村自身がそう、頼んだのだから。御幸のおかげで、あの悍ましい記憶はもう、御幸との思い出に変わっている。

けれどだからと言って沢村の身に起きた事が無くなるワケではなく、対人恐怖も一長一短に治るものでも無い。沢村が御幸の障害になる事実は何も変わっていない。
沢村には、御幸がくれた言葉だけで十分だったのに、御幸は約束を守って本当に迎えに来てまでくれた。これ以上、沢村が望むものなどある筈無かった。

一抹の寂しさと、けれどこれから世界へと羽ばたく御幸の誇らしさと、そして沢村の恐怖を拭ってくれた優しさに―――喜びで涙があふれる。そこに

「また泣いてるのか?栄。泣き虫になったな」
 
聞こえる筈の無い声に、思わず沢村が目を開けると、超至近距離というか触れる寸前に御幸の綺麗な顔があり。そして当然のようにそれは唇に触れた。
 
「おはよ。栄。――よく眠れたか?」
 
それはもちろん、ではなく。
 
「な、みゆ…っ、何…っ」
 
何でここに、という沢村に御幸は面白そうな顔をした。
 
「そりゃ、約束を果たしてもらいに?」
 
何の話だと戸惑う沢村に御幸はベッドに腰かけにっこりと告げた。
 
「知ってるか?栄。社会人ってのはな、約束ってものは形にしなきゃいけないもんなんだよ?」
 
一年ばかり社会人の男は有無を言わさない笑顔で沢村の左手を取る。
 
「え…」
「急いだ、って言ったろ?」
 
確かに、言っていた。一番最初に。
けれどそれは沢村のトラウマを埋める為に、同じ場所で同じ行為をしなきゃならなかった――からでは無いのか。
沢村が卒業してしまったら、あんな用具室に入り込むなんて出来ないから――

だから、急いだ、のだと思っていた。
なのにこの、左手に嵌る立派過ぎる指輪は何なのだろう。ドキドキと有り得ない言葉が頭を廻る。

沢村の反応に、はーーと御幸が長い溜息をつく。
 
「お前、卒業しちまったら誰が奪いにくるか分かねーだろうが」
 
何、バカな発想をしているのだろう、と本気で思う沢村を御幸は見つめる。その静かな瞳にドキリと沢村の胸がなった。

「オレが行くメジャーの本拠地ってどこか知ってる?」
 
当たり前だ。ずっと御幸を追っていたのだ。
簡単すぎる、この場ではあまり関係のなさそうなその答えを告げる。
 
「ニューヨーク州の…」
「そ。そこではな、栄―――」
 
耳元に告げられた言葉に、御幸を見つめ返す。信じられない。その為にこんな事を本気でやり遂げたというのだろうか。
ぽろぽろと涙が零れる。

在学中、御幸は沢村をバカだバカだと言っていたけれど。――御幸の方は大バカだ。

涙の止まらない沢村を御幸は構わず胸に抱き込む。
 
「――栄。オレを愛してる、だろ?」
 
御幸の質問に頷く。こんな、応えてしまっていいのか、と思う心は、けれど御幸がすべて吹っ飛ばしてしまった。
ここまでして見せてくれた――何より恋しい相手にどうして偽りを告げられるだろう。

「だったら形で応えてくれないとな?」
 
目で返事を問う御幸に唇が震える。

「…オレで――いいの?」
 
それでも消えない沢村の不安に御幸ははっきりと答える。

「オレが欲しいのも必要なのも栄だけだ。――オレはお前だけしか抱けないよ」
 
嬉しさと――変わらぬ御幸の軽口が信じられないほど幸せで。
ぽこ、と胸を叩く。
 
「…スケベ」
「そんなオレを愛しちゃってるだろ?」
 
いつもの腹立つほどの余裕と――けれど真摯な瞳に沢村は思いっきり頷いて、その胸に飛び込んだ。

「愛してる…誰よりも、ずっと」
 
知ってるよ、と答える声はけれど喜びが溢れていて。
でも、オレの方がずっと愛しちゃっているよ、と告げられて。

沢村は御幸をしっかり抱きしめる事で答えた。







 







「責任は取る、って言ったろ?」
 
目の前の憎たらしいほど余裕綽綽の男を倉持は睨みつける。文句なら山ほど、それこそエベレスト越えにある。大体やり方がマズ過ぎる。というよりむしろ、そりゃねーだろ、と言える。

けれど、この独占欲の塊のような男に愛された沢村に諦めろ、と言った方が早いのだろうか。
そして、まぁ一発は現場でぶん殴ったのと。
この男の信じがたいほどの努力と成果はさすがに認めざるを得なくて。

何より、肝心の沢村が幸せそうなのだ。
こればかりはもう、諸手を上げるしかない。
 
あれだけの苦しみや痛みが全てこの目の前の男――御幸に集約していた沢村の気持ちを考えると、さっさとどちらかが告白して両想いになっていれば何の問題も無かったのに、と何度も思ったが。

結局のところいつも独りで独善としていた御幸ですらこの柔らかな幸せそうな顔をしているのに良かった、などと思ってしまう自分は、この二人が好きなのだ。

「そんで。向こうで結婚か」
「うん。籍はもう入れちゃってあるからさ。断られたらどーしよーかと思ったよ」
「…っ」
 
前言撤回しよう、と倉持は思った。
もはや文句さえ見当たらない。
心の中でひっそりガンバレ、沢村。とエールを送るばかりだ。
 
「式は向こうで挙げるから、お前も英語頑張れよ」
 
しっかり招待客リストに上ってる事に感謝すべきなのだろうか。けれど中々帰ってこれねぇだろうからな、と言われ思わず振り返る。
 
「だろ?日本じゃまだまだ」
 
確かにそうだ。しかも御幸ほどの選手となればどうしたって注目がいく。
照れ屋な沢村には堪らないだろう。
 
オレは構わないんだけどね。そういう御幸の目は本気で、まぁコイツならそうだろうと思い。そんなトコだけは潔くて良いというべきなのか、とか悩んだりもしてみた。
 
ふと空を見上げる。
 
この変わらない青空の下、一緒に走り回り、本気で闘い、本気で涙した仲間の新たな舞台が続いている。
 
「ま、応援はしてやるよ」
 
うわあ、どうしたの倉持くん、気持ち悪い。と言われ、遠慮なくキックをかます。

「負けて帰ってきても笑ってむかえてやるから」
 
と言えば、それ本気の笑いだな、と不敵な瞳が答えてきた。けれど
 
「負けないよ」
 
予想以上に静かな声に、ひたりと視線が合わさる。
いや、負けてもいいのかな、と続く言葉に、なんだそりゃ、と言うと見た事も無い表情で御幸が答えた。
 
「オレには栄がいるからね」








二人で歩く。
空港の道は人でごった返しているから、と言って御幸の手は沢村に繋がれていた。もちろんそれは半分以上は恥かしがりやの沢村の為の言葉だ。
けれど混雑も事実だった。

「大丈夫か?栄」
 
御幸のおかげでトラウマが克服出来た、とは言え久々の人込みだ。
少し怯えていた沢村は、けれど幸せそうな顔を見せた。
 
「御幸がいるから」
 
思わず抱きしめたい衝動を押さえて御幸は沢村だけの笑顔を見せる。
そしてそっと告げた。
 
「ま、お前がどこで迷子になっても必ず捕まえに行くからな」
 
あらゆる意味で事実のそれに沢村も答える。
 
「オレもずっと一緒にいたい」
 
そんな沢村が御幸をどれだけ幸せにしているのかなんてしらないだろう。
もう、堪らなく愛しくて、こんな人前で沢村は困るだろうなと思いつつも、容赦なく沢村を抱きしめた。






二人の空は、これからもずっと一緒に続いている。












◇番外編漫画はこちら◇    


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